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福岡高等裁判所 昭和32年(ネ)696号 判決 1958年7月05日

控訴人(附帯被控訴人) 山口武喜

被控訴人(附帯控訴人) 反後アキ 外四名

主文

原判決を左のとおり変更する

控訴人は被控訴人等に対し、別紙目録(一)記載の家屋を明渡し、且昭和三十二年二月十二日以降右家屋明渡完了まで一ケ月につき二万七千五百円の割合による金員を支払え。

被控訴人等の、その余の請求を棄却する。

被控訴人等の附帯控訴は、これを棄却する。

訴訟の総費用(附帯控訴により生じた部分を含む)は、控訴人の負担とする。

この判決は、右第一、二項に限り、被控訴人等において、控訴人に対し、家屋明渡については金二十万円の担保を供するときは(損害金の支払については、担保を供せずして)、仮りに執行することができる。

控訴人において被控訴人等に対し、金四十万円の担保を供するときは、家屋明渡に関する部分に限り仮執行を免れることができる。

事実

控訴代理人は、原判決中控訴人勝訴部分を除き、その余を取消す、被控訴人の請求を棄却する。訴訟費用は第一、二審共被控訴人の負担とするとの判決を求め、被控訴人の附帯控訴に対しては、附帯控訴棄却の判決を求め、万一、控訴人敗訴の場合は、担保を条件として仮執行の免脱の宣言を求める旨申立て、被控訴人等代理人は控訴棄却の判決を求め、附帯控訴として「原判決中附帯控訴人勝訴部分を除き、その余の部分を左のとおり変更する。附帯被控訴人は、昭和三十年十二月一日以降本件家屋明渡に至るまで、一ケ月金三万三千円の割合による金員を附帯控訴人等に支払え、附帯控訴費用は附帯被控訴人の負担とする。」との判決を求めた。

事実関係につき、被控訴人等(附帯控訴人等、以下単に被控訴人等と略記)の訴訟代理人において、被控訴人等の主張事実は、次の点を補正する外、原判決の事実摘示に被控訴人の主張として記載せられているとおりである。すなわち

(一)  原判決書二枚目表四行目に「昭和三十一年十二月一日より」とあるは、「昭和三十年十二月一日より」の誤記、二枚目表十三行目に「賃貸期間は昭和三十年」とあるは、昭和二十年の誤記であるから、いずれも右のとおり訂正陳述する。

(二)  控訴人は、本件家屋において、旅館営業をなす外、別に本件家屋の向い側において、内縁の妻木下サヲ名義で、松竹旅館(建坪延百八十四坪)を経営している。また、控訴人は、その家族と共に、山口産業合資会社を経営して物品販売その他の営業を営んでいるから、本件家屋を明渡しても生活に困ることはない。これに反し、被控訴人等は、本件家屋の明渡を受けて、旅館営業をする外には莫大な借財と多額の滞納税金を支払つて生計を立てる途がない。従つて、本件賃貸借解約の申入れには、正当事由がある。

(三)  本件賃貸借契約締結に際し、控訴人は本件家屋の修繕改造費等、いわゆる有益費、必要費、造作代金等は、すべて自ら負担しこれを被控訴人等先代に請求しないことを確約したので、被控訴人等先代も、これを前提として、本件家屋を控訴人に賃貸し、且賃料も、右修繕改造、造作費用を回収せしめる為月四百五十円という市価の半額の値段としたのであつて、その後、近隣の家賃が著しく騰貴しても最初の数年間は、右金額のまゝ据置かれ、その後の値上額も市価に比し、遙かに低廉であつた。従つて控訴人は、家賃を少く支払うことにより、その支出した有益費、必要費、造作費用を充分回収し得た筈であり、被控訴人等先代及び被控訴人等は、家賃を特に少く取ることによつて、月々造作代金を償還したものというべく、控訴人の附加した造作費用等は、これによつて、既に銷却され、買取請求権は消減したものというべきである。然らずとせば、賃料を特に安くした趣旨は没却され、甚だしく不公平な結果となる。

(四)  本件賃貸借は昭和三十年十一月三十日終了し、控訴人は、その翌日以降本件家屋を不法に占有している。従つて同日以降の、賃料相当の損害金支払義務は、不法行為による債務であるから、不法行為者たる控訴人の側から、造作代金債権と相殺することは許されないと陳述し。

控訴代理人において、

(一)  本件賃貸借契約において、賃貸期間が、昭和二十年十二月一日より昭和三十年十一月三十日までとなつていたことは認めるが、その後本件家屋の修補工事中、被控訴人等先代反後大五郎は、控訴人に対し、契約では一応十年となつているが、二十年でも三十年でも貸してよいと言明していたものであつて、十ケ年の期間満了と同時に明渡す約旨ではなかつたものである。

(二)  本件家屋に備付けてある大時計一個、及び本件家屋に附加した玄関硝子戸四枚、丸窓一枚、赤戸大十一枚、赤戸小六枚等は、控訴人において、昭和二十一年十二月五日、被控人等先代から買受け、控訴人の所有に帰したもので、控訴人は借家法第五条により買取請求権を有するから、控訴人の行使した造作買取請求権の対象中に包含さるべきものである。

(三)  本件家屋前の街路にある街路灯は春日町商友会員として拳町一致して建設、この建設費負担金四万八千円は、当然被控訴人の支払うべき造作買取代金中に包含さるべきものである。

(四)  控訴人が原審以来主張して来た営業権の価格は、控訴人の営業の好転に伴い、更に増大し現在三百万円以上である。この営業権は、本件家屋と不可分の関係にあり、本件家屋の明渡により控訴人はこれを喪失するのであるから、被控訴人等において、その代償を支払う義務があり、控訴人はその支払を受けるまで本件家屋につき留置権を行使する。

(五)  賃料を完済したとの前記控訴人の主張が容れられない場合は、本件家屋の造作代金全部と、被控訴人等主張の延滞賃料及び損害金債権とを対当額において相殺する。と陳述し

証拠関係につき、被控訴代理人において、甲第十号証を撤回し、更めて甲第十号証の一乃至四、甲第十一号証、甲第十二号証の一、二、を各提出し、当審証人西山次男の証言、当審鑑定人栗林光の鑑定書、当審における被控訴本人反後アキ尋問の結果を各援用した外、当審証人木下サヲの証言を利益に援用し乙第五号証は不知、その余の乙各号証は成立を認めると述べ

控訴代理人において乙第三号証の一、二、三、乙第四、五号証、乙第六号証の一乃至四、乙第七号証の一乃至四、乙第八号証を各提出し、当審証人木下サヲ、平尾隆雄の各証言、当審鑑定人小山清の鑑定書、当審における控訴人本人尋問の結果を援用し、甲第十号証の一乃至四、甲第十一号証、甲第十二号証の一、二の各成立を認めた。

以上の外、当事者双方の、事実上及び法律上の陳述、証拠の提出、援用、書証の認否は、原判決書の当該摘示と同一であるから、ここにこれを引用する。

理由

被控訴人等の前主亡、反後大五郎が、昭和二十年十二月一日、その所有の別紙目録記載の家屋を、控訴人に対し(一)賃料は一ケ月四百五十円、(二)賃貸期間、同日より昭和三十年十一月末日まで、(三)家屋の修繕改造については、貸主の承諾を要し、これに要する費用一切は賃借人たる控訴人の負担とする、(四)畳建具、風呂釜、電気器具等一切の附属品はすべて賃借人の所有物を使用すること。従つて、その修繕又は改造の費用は、すべて賃借人の負担とする。との約定で、これを賃貸したことは当事者間に争がない。

「(一)賃貸期間について。」

控訴人は賃貸期間は、契約上十ケ年となつてはいたが、反後大五郎は、控訴人に対し二十年も三十年も賃貸すると言明していたから、未だ賃貸期間は満了していないと抗争するけれども、成立に争のない甲第一号証によれば、本件賃貸借契約証書に賃貸期間を昭和三十年十一月末日までとし、その期間満了若くは契約解除により、賃貸借契約が終了したときは賃借人は直ちに、右家屋を明渡すことなる条項が明記されてあり、契約の更新に関する記載もないこと、及び原審証人反後徳太郎、同上、上留市の各証言、原審及び当審における被控訴本人反後アキ尋問の結果を綜合すると、賃貸期間は、証書記載のとおり、昭和三十年十一月末日まで十ケ年の約定であり、控訴人主張のような約定ではなかつたことを認め得べく、原審及び当審における控訴人本人尋問の結果中、以上の認定に反する部分は措信し難く、他にこれを覆すに足るべき確証はない。

「(二)本件賃貸借の更新拒絶に正当の事由ありや。」

成立に争のない甲第三号証によれば、被控訴人等の前主亡、反後大五郎は控訴人に対し、昭和三十年一月三十一日付の内容証明郵便を以て、本件賃貸借契約の更新拒絶の通知をなすと共に、右賃貸期間満了と同時に、本件家屋を明渡すべきことを請求したことを認めることができる。

よつて、右更新拒絶の通知に、正当の事由があるか否かについて、審究するに、成立に争のない甲第一、二号証、同上甲第四号証、同上甲第十号証の一乃至四、同上甲第十一号証、同上甲第十二号証の一、二原審証人反後徳太郎、同上、上留市の各証言、原審及び当審における被控訴本人反後アキ、原審における被控訴本人反後トキに対する各本人尋問の結果、原審及び当審における控訴本人尋問の結果の一部(但し、控訴本人尋問の結果中後記認定事実に反する部分は措信し難いからこれを除く)に本件口頭弁論の全趣旨を綜合すると、次のような事実を認めることができる。すなわち、被控訴人等先代反後大五郎は、大正十二年に本件家屋を建築し、爾来右家屋において旅館業を営んでいたが、被控訴本人反後アキは大正十四年大五郎と婚姻、大五郎と共に旅館営業に従事し、長女反後トキも長じて後は婿養子(反後トキとの間に三人の子供をもうけて後、離婚、離縁して同家を去る)を迎え引続き家業の手伝をしていたこと。然るに昭和二十年中本件家屋は強制疎開の対象となつたので、やむなく一家はこの家屋を出て、熊本県上益城郡龍野村の正龍寺に仮寓していたが、間もなく終戦となり、強制疎開の命令は取消され、右家屋は再び大五郎の手に戻つて来たのであるが、その僅かの期間内に畳建具等は取り去られ、壁も落ち、相当荒廃していたこと。従つてこれを補修して再び旅館業を始める為には、相当多額の修繕費用を要したのであるが、大五郎にはその資力がなかつたので、旅館業の再開を一先ず他日に期し、その時機の到来するまで、他にこれを賃貸することとし、訴外上留市等に依頼して、本件家屋を自費で補修して旅館業を営む賃借人を物色しているうち、上留市の斡旋により、控訴人にこれを賃貸するに至つたこと。而して大五郎としては当時既に六十才に近く是まで旅館業に没頭して来たので他の職種に転業することも困難であつた為、本件家屋で旅館業を再開する日を期待し、賃貸期間はなるべく短いことを欲したのであるが、本件家屋がその修繕改造に多額の費用を要し、その修繕費用も賃借人に負担せしめる関係上、その投下資本を回収せしめる為には、賃貸期間も長からざるを得ず、結局これを十ケ年とし、その代り家屋についての修繕改造の費用(有益費、必要費)及び造作物を附加するに要した費用も、すべて賃借人の負担とすることを、控訴人との間に確約し、右家屋に対する補償として県から大五郎に支払われた四千三百七十六円も、その全部を本件家屋自体の修繕費用として控訴人に交付したこと。(この金員は当時の家賃の約十ケ月分である。)よつて控訴人は右家屋に修繕造作を加えて旅館業を始めたが昭和二十三年九月以降は家族を社員として山口合資会社を設立し、本件家屋の一部を店舗としてビニール販売業、古物商等を始め、昭和二十八年十月には新に山口産業合資会社を設立して、山口合資会社の営業をこれに引継いだ外、衣料品雑貨、その他の物品販売業、煉炭の製造販売、ローラースケート場の経営等をも営み、スクーター一台軽自動車二台を所有し、相当の生活を営んでいること。更にその後本件家屋の筋向いにある訴外木村雅人所有の木造瓦葺三階建住家一棟、建坪六十八坪四合、外二階六十一坪五合、三階五十四坪五合(総坪数百八十四坪)の家屋を賃借して、控訴人の内縁の妻木下サヲを営業名義人として松竹旅館を経営していること。然るにこれに対し被控訴人等の生活状況を見るに、反後大五郎は老年でもあり(解約申入当時は既に六十九才)長年旅館業に没頭して来た関係上他に適当な職を見出することもできず本件家屋の賃料が唯一の生活資源であつたが、その資料は当初は四百五十円で、その後急激な物価騰貴の為これでは何の足しにもならなくなつたので、屡々控訴人に対し賃料値上の交渉をしたが、控訴人は証書の期限どうり十ケ年で明渡しをするのだから賃料の値上はできないといつて、これに応じない為、実に六ケ年の長きに亘つて賃料は月四百五十円のまま据置かれ、その後漸く一万円に改められたが大五郎一家は他に収入の途もないので一家の困窮は益々加わり、その上大五郎は昭和三十一年二月十日多額の借財及び滞納税金を残したままに死亡し、後に遺されたのは女子供のみとなつたこと。すなわち被控訴人反後アキは現在既に六十才、被控訴人反後トキ(現在四十八才)は離別した夫、反後春野との間に生れた被控訴人清明(十八才)、被控訴人徳生(十三才)被控訴人国子(十才)等三人の子女を抱えているので、他人に雇われて働いて見ても到底数十万円の借財と滞納税金を支払い一家の生計を立てることは不可能で、清明は貧困の為高校も中途退学のやむなきに至つたこと。また被控訴人等の賃借居住している家屋も荒廃甚だしく、雨天の際は雨漏りが激しいので布団も拡げ兼ねる状態であり、石垣は崩れかかり家屋崩壊の危険さえ感ぜられる程であるが、これまた如何ともし難い状況であることを認めることができ、以上の認定に反する原審及び当審における控訴本人尋問の結果の一部は措信し難く、他には叙上の認定を覆すに足るべき確証はない。以上認定事実によれば、控訴人は本件家屋を明渡しても、前記松竹旅館において旅館業及び前記会社の目的たる営業を続け得られ、自活の途に缺けるところはないことが推認せられるに反し、被控訴人等は、本件家屋の明渡を受けて、旅館営業をなす外には前記巨額の借財及び滞納税金を支払い、生計を維持する方法がないことを察知することができる外、賃借人、賃貸人双方における前認定の一切の事情を考慮すれば、被控訴人先代大五郎のなした本件賃貸借契約の更新拒絶は既にその当時において借家法第一条の二にいわゆる正当の事由があるとき」に該当し、更にその後の事情は益々その正当性を強化しているものということができる。従つて前記賃貸期間の経過と共に右賃貸借は終了し控訴人は昭和三十年十二月一日以降、本件家屋を被控訴人先代に明渡す義務を負うに至つたところ、被控訴人先代の死亡により、被控訴人等がその遺産相続をなし、先代の法律上の地位を承継したことは、訴訟手続受継の申立書に添付された戸籍謄本及び本件口頭弁論の全趣旨に徴し明白であるから、控訴人は被控訴人等に対し、本件家屋を明渡し、且賃貸借終了の翌日たる昭和三十年十二月一日以降明渡済みに至るまで賃料相当の損害金を支払う義務を負うものというベきである。よつて、その損害金の数額について按ずるに、原審鑑定人佐藤可の鑑定書によれば、本件家屋の昭和三十年十二月一日以降の相当賃料額は、原審認定のとおり一ケ月金二万七千五百円を以て相当と認められる。(当審鑑定人栗林光の鑑定書によれば更により以上の高額となるけれども、右認定を超える部分は採用し難い)

「(三)本件家屋につき、控訴人は留置権を有するか。」

控訴代理人は借家法第五条により、控訴人は被控訴人に対し、原判決添付目録記載の修繕造作物の買取請求権を有し、本訴において、その買取りの意思表示をしたから、右造作代金の支払を受けるまでは、本件家屋につき留置権を有する、従つて現に控訴人が本件家屋を占有しているのは、正権原に基くものであるから、損害金発生の原因とはならないと抗争するので、この点につき審究するのに、当審鑑定人小山清の鑑定書の記載に、被控訴人の自認するところ、その他本件口頭弁論の全趣旨を参酌して考えると、控訴人が本件家屋についてなした修繕改造工事中、本判決書末尾添付の造作目録<省略>記載のもののみは、借家法第五条の造作に該当することを認め得べく、これについて控訴人が造作買取請求権を有することはいうまでもない。(当審において、控訴人の特に主張する本件家屋前の街路にある街路灯の如きは、控訴人の主張自体によつても本件家屋に附加されているものではなくて、附近一帯の商店街照明の為、控訴人が春日町商友会の一員として、分担金を負担して他の会員と共同して建設した一連の街路灯の一たることが明らかであるから、本年家屋の価格を増すものとして、右分担金の支出が家屋自体の有益費となるか否かは別として、借家法にいう造作には該当しない。(その他右目録記載以外のものは借家法第五条の造作に該当しない。)被控訴人は、本件家屋の修繕改造工事の費用一切は、賃借人たる控訴人の負担とする約定であつたから、控訴人は造作買取請求権を有しないと主張し、本件賃貸借の当事者としては、この費用負担の約定のうちに、造作代金をも含ましめる趣旨であつたと見られるけれども造作買取請求権を予め抛棄する特約は借家法第七条、第五条に違反するから、無効である。また、被控訴人は本件賃貸借においては、賃料を特に低廉とすることにより造作費用はなし崩し的に償還され、これによつて造作買取請求権は消滅したと主張するけれども、造作代金の償還につき、そのような特約があり、その趣旨の下に略、償還額に相当するだけ、特に家賃を低廉に定めたことを認めるに足る確証はないから造作買取請求権は消滅すべき理由なく、従つて被控訴人の右主張は失当である。

しかしながら、造作を除き、いわゆる家屋自体の有益費、必要費については、これを賃借人の負担とする特約も有効であり、本件家屋については、控訴人と被控訴人等先代との間においてかような特約のあつたことは、当事者間に争がないから、これ等の費用は控訴人においてこれを負担すべく、被控訴人等に対し右費用の償還請求権を有しない。従つてまたこれを理由としては本件家屋につき留置権をも有しない。而して控訴人は昭和三十一年一月二十六日の本件口頭弁論において、右造作の買取請求権を行使する意思表示をしたのであるが、次に述べる理由により、控訴人は造作代金の支払あるまで本件家屋の明渡を拒み得べき同時履行の抗弁権を有せず、また本件家屋の留置権をも有しないものである。蓋し、借家法第五条に基き賃借人が造作買取請求権を行使したときは、これによつて、賃貸人と、賃借人との間に造作物の売買契約が成立したのと同一の法律効果を生ずるから当事者は民法第五百六十条以下の売買契約に関する特別規定の適用を受けるのみならず、一の双務契約乃至は双務契約と同一視すべき点よりして民法第五百三十三条の同時履行に関する規定の適用を受けるものではあるが、賃貸借終了による賃借人の建物明渡義務と造作買取請求権行使の結果生ずる賃貸人の造作代金支払義務とはその発生原因を異にし、互に対価的関係がないから、その間に同時履行の抗弁権の成立する余地なきは勿論、造作代金債権は該造作に関して生じた債権たるにとどまり、家屋に関して生じた債権ではないから、賃借人は造作代金の支払を受けていないからといつて家屋そのものについて留置権を主張し、その明渡を拒み得べきものではない。

以上のとおり、造作代金の支払あるまでは、本件家屋につき、留置権を有する旨の控訴人の抗弁は採用できない。

また、控訴代理人は「控訴人は不知火旅館の商号の下に、既に十二ケ年に亘り、本件家屋で営業を継続しており、営業権を有するからその代償の支払を受けるまでは、本件家屋につき留置権を有する」と抗争するけれども、家屋についてのいわゆる場所的利益または営業に関する得意関係若しくは、のれん(老舗権)という如き無形の財産的利益は、借家法第五条の「賃貸人ノ同意ヲ得テ建物ニ附加シタル…………造作」という字句に該当しないことが明らかでありまた「畳建具其ノ他ノ造作」といつて、畳建具を例示した趣旨から考えても、同条の造作には包含されないと解するのが相当である。その他控訴人抗弁の如き営業権に基いて、本件家屋につき留置権を認め得べき根拠はないから、控訴人の右抗弁も採用できない。

(四)「造作代金請求権と本件家屋の不法占有に基く損害金債権との相殺は許されるか。」

以上のとおり控訴人は、昭和三十年十二月一日以降は本件家屋を占有する正権原を有せず、これを不法に占有しているものであるが、右不法占有に基く被控訴人の損害金の請求に対し、控訴代理人は被控訴人等に対する造作代金債権を以て、右損害金債権と相殺すると抗争するから、その相殺の効力について審究すると賃貸人の造作代金支払義務と賃借人の造作物引渡義務とは同時履行の関係に立つものであるところ、同時履行の抗弁権は二個の相対立する債権を以て同時に交換的に満足せしめることを目的とする権利であるから同時履行の抗弁権を以て対抗せらるべき造作代金請求権を以て家屋の不法占有によつて生じた損害賠償請求権と相殺することが許されるとすれば、賃貸人は未だ造作物の引渡を受けざるに拘らず、先づその代金を先きに支払わねばならぬこととなるべく、故なく同時履行の抗弁権を奪われることとなるから、かかる相殺はこれを認め難い。しかしながら一方賃借人(控訴人)が造作物を現実に引渡した後でなければ造作代金請求権を以て、賃貸人の賃借人に対して有する他の債権と相殺し得ないとすることはこれ亦造作物の引渡義務につき相殺者(賃借人)の有する同時履行の抗弁権を奪う結果となり公平に反するから賃貸人、賃借人双方の公平を図ろうとすれば、相殺者(賃借人)は反対給付(造作物引渡義務)を現実に履行するに至らずとも、その履行の提供をすれば、相殺の意思表示をなすことができ、相手方(賃貸人)が右履行の提供を受領するか又は故なく受領を拒絶した結果受領遅滞に陥ることにより相手方(賃貸人)の有する同時履行の抗弁権は消滅し、これと共に相殺の効力も生ずると解するを相当とする。従つて、本件においても控訴人が造作代金債権を以て本件家屋不法占有による損害金請求権と相殺するには賃貸人たる被控訴人に対し、反対給付たる造作物引渡義務の履行の提供を要すると解すべきところ、控訴人がその提供をしていないことは口頭弁論の経過に徴し明らかであるから控訴人の相殺の意思表示は、その効力を生じないものといわなければならない。

「(五)被控訴人等の相殺の意思表示は有効か。」

しかしながら被控訴人等は原審において「仮りに被告に造作買取請求権ありとしても、被告の施工した修繕工事費用の現在の時価は鑑定人佐藤可の鑑定の結果によると、原告が修繕を認めない部分を併せても、合計三十九万五千円であるから原告の被告に対して有する昭和三十年十二月一日以降昭和三十二年二月までの賃料相当の損害金債権三十九万五千円と右造作代金債権とを対当額において相殺する旨の意思表示をする」と主張しているから、この点について審究するに条件付の相殺の意思表示は無効であるけれども(民法第五百六条第一項但書)原審における被控訴人等の右相殺の意思表示は民法上の相殺の意思表示に条件を附したものではなく、口頭弁論において実体法上の効果を生ずる相殺の意思表示をすると共に相殺により控訴人の有する造作代金債権が消滅した事実を訴訟上の防禦方法として提出援用したものであつて、ただその訴訟上の援用が予備的になされたもの、すなわち「造作買取請求権が消滅しているとの被控訴人等の防禦方法が理由なき場合においてはこの相殺による造作代金債権消滅の事実を訴訟上援用する」というに過ぎない。(控訴人の造作買取請求権が最初から不成立であり或は何等かの理由で消滅していれば、たとえ相殺の意思表示をしても実体上無意義であるというだけであつて、これを以て条件付の相殺の意思表示と解すべきではない。)かように被控訴人等の相殺の抗弁は有効であつて、実体上の効力を生じているから次ぎにその効果について判断する。

(六)「右相殺の効果(相殺により消滅した債務と残存する債務)」

既に認定したとおり、本件家屋において控訴人が附加した造作と見るべきもの(但し一部は控訴人が被控訴人等先代から買受けたもの)は本判決添付の造作目録記載のとおりである。而して造作のうち買取請求の許されるのは借家人が家主の同意を得て建物に附加したもの及び借家人が家主から買受けたものに限られるのであるが、右目録記載の造作のうち、×印を附したものについては被控訴人において不必要の工事であるとして、買取請求権の成立を否定しているが、これ等を附加するにつき被控訴人先代が異議を述べたわけではないし(そのような主張立証はない。却つて、口頭弁論の全趣旨によれば、何等不同意を表明する如きことはなかつたことを窺知できる)また本件家屋を賃貸するに至つた経緯、本件賃貸借契約の内容、その他前認定事実から判断すると被控訴人等先代反後大五郎は本件家屋を賃貸するに際し、控訴人が本件家屋において旅館営業をなすこと、その為には右家屋に大々的な修繕造作を施することが必要であることを知つていた関係上及びその費用は控訴人が負担する約定であつた関係上控訴人が本件家屋を旅館として利用するに必要な造作を附加するについてはそれが旅館経営上必要なものである限り一々家主の同意を得なくても控訴人において適宜これを附加し得る趣旨の包括的な同意(少くとも黙示的の同意)を与えていたものと認められるところ、前認定の造作には本件家屋を旅館として利用するに不必要なもの(例えば賃借人の特殊な個人的な趣味によるもの、或は甚だしく贅沢高価なもの等)は含まれていないことが前記鑑定人小山清の鑑定書の記載からも察知できるから是等造作の全部が借家法第五条の「賃貸人ノ同意ヲ得テ建物ニ附加シタル…………造作」に該当し、従つてその全部につき買取の効果を生じたものと見なければならない。而してその時価は――その算定時期につき賃貸借終了の時(本件では、昭和三十年十一月三十日)を基準とする説によるも買取請求権行使の時(本件では昭和三十一年一月二十六日)を基準とする説によるも、その間五十数日を経過しているに過ぎないから結果は同一であつて――当審鑑定人小山清の鑑定書に原審鑑定人佐藤可の鑑定書の一部を綜合すれば合計五十四万五千百六十円と見るのが相当である。(右各鑑定書は前説示の算定時期より若干後の日時を基準として算定しているが、その間における物価の変動、使用日数の増加等により価格の増減が仮りにあつたとしても、いうに足りない些細なものと認められるから、このことは右各鑑定書によつて、時価を算定することを妨げるものではない。)

而して、被控訴人は右造作代金債務に対し三十九万五千円の限度において、損害金債権と相殺する意思表示をしたのであるから、右造作代金債権及び前記損害金債権は共に右の限度において消滅し、造作代金残債権は十五万百六十円となるべく、また相殺によつて消滅した損害金債権三十九万五千円は昭和三十年十二月一日以降昭和三十二年二月十一日までの損害金に相当するから控訴人は昭和三十二年二月十二日以降一ケ月二万七千五百円の割合による損害金を被控訴人に対し、支払えばよいこととなる。(なお、控訴人が昭和三十年十二月以降賃料の弁済として一ケ月一万円の割合による金員の供託をしていることは、被控訴人等の認めるところであるが、一部弁済の供託は原則として許されないし、また控訴人は昭和三十年十二月以降も、本件賃貸借が有効に存続していることを前提としてその賃料としてこれを供託しているのであるから賃料と別個の性質を有する前認定の損害金に対する適法な弁済とはなり得ない。)

以上のとおり被控訴人の本訴請求中、控訴人に対し本件家屋明渡義務の履行及び昭和三十二年二月十二日以降本件家屋明渡完了まで一ケ月二万七千五百円の割合による損害金の支払を求める部分は正当であるからこれを認容すべく、その余は失当であるから、これを棄却すべきところ原判決が昭和三十年十二月一日以降昭和三十二年二月十一日までの右割合による損害金の支払をも命じたのは結局において失当であるからこの部分を変更し、附帯控訴人の附帯控訴は理由がないからこれを棄却し、民事訴訟法第三百八十六条、第三百八十四条、第八十九条、第九十二条、第九十三条、第百九十六条を各適用し、主文のとおり判決する。

(裁判官 中園原一 中村平四郎 亀川清)

目録(一)

本件家屋の表示

熊本市春日町久末屋敷七百六十六番の十一

家屋番号 同町四三九番

一、木造瓦葺四階建店舗一棟

建坪 四十九坪九合

外 二階坪四十九坪

三階坪四十二坪八合

四階坪三十三坪

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